以津真天とは
以津真天(いつまで)は、「いつまで、いつまで」と不気味な声で鳴く怪鳥の妖怪です。人のような顔に曲がったくちばし、のこぎりのような歯、蛇のような体と鋭い爪を持ち、翼を広げると約5mにもなったといわれます。
以津真天は、南北朝時代の軍記物語『太平記』に記された怪鳥退治の話がもとになっています。「以津真天」という名前と姿は、江戸時代の浮世絵師・鳥山石燕によって描かれ、広く知られるようになりました。
疫病の年に現れた怪鳥
『太平記』によると、1334年(建武元年)の秋、疫病が流行して多くの人が亡くなった年に、宮中の紫宸殿(ししんでん)の上に、毎晩のように怪しい鳥が現れました。その鳥は、「いつまで、いつまで」と鳴いて、宮中の人々を恐れさせたといいます。
当時は、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒して、建武の新政と呼ばれる新しい政治を始めたばかりのころでした。しかし、世の中はまだ落ち着かず、戦乱や疫病によって多くの人が命を落としていました。そうした不安な時代の中で、怪鳥の出現は、不吉な出来事の前ぶれとして受け止められたのです。
隠岐広有の怪鳥退治
宮中では、怪鳥を退治するために、弓の名手を選ぶことになりました。そこで選ばれたのが、隠岐次郎左衛門広有(おきのじろうざえもんひろあり)という武士でした。
広有が紫宸殿の上の暗闇に向かって矢を放つと、矢は見事に怪鳥に命中し、怪鳥は庭に落ちてきました。人々が明かりを近づけて見てみると、その姿は、人のような顔を持ち、体は蛇のようで、くちばしは曲がり、歯はのこぎりのように並び、足には鋭い爪があり、翼を広げると五メートルほどもある、恐ろしいものだったといいます。広有は、この手柄によって褒美を与えられました。
鳥山石燕が名付けた「以津真天」
江戸時代の浮世絵師・鳥山石燕は、1781年の妖怪画集『今昔百鬼拾遺』で、この『太平記』の怪鳥を描き、「以津真天」という名前を付けました。それまでは名前のなかった怪鳥に、鳴き声をもとにした名前が与えられたのです。
「いつまで」の意味
「いつまで、いつまで」という鳴き声は、何を意味していたのでしょうか。よく知られているのは、疫病や戦乱で亡くなった人々の遺体が、弔われないまま放置されていたことに対して、「いつまで放っておくのか」と訴える死者の声だという解釈です。
また、新しい政治がうまくいかない中で、「この世の乱れはいつまで続くのか」という人々の不安や嘆きを、怪鳥の声として表したものだと考える説もあります。実際に、建武の新政はわずか2年ほどで崩れ、その後、南北朝の長い争いの時代が続いていきました。
宮中の怪物退治
宮中に現れた怪物を弓の名手が射落とす話は、平安時代の鵺退治の話とよく似ています。鵺は、猿の顔、狸の体、虎の手足、蛇の尾を持つ怪物で、平安時代の終わりごろ、宮中に現れて天皇を苦しめましたが、源頼政が弓で射落としたと伝えられています。以津真天の話は、この鵺退治の話の影響を受けて生まれたとも考えられています。
現代の以津真天
以津真天は、その不気味な鳴き声と姿から、現代の漫画やゲームにもたびたび登場しています。疫病や死者と結びついた妖怪として、時代の不安を映し出す存在でもあります。疫病を払うとされた妖怪としては、江戸時代の終わりに広まったアマビエもよく知られています。





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