崇徳天皇とは
崇徳天皇(崇徳院)は、平安時代末期の第75代天皇です。鳥羽天皇の第一皇子として生まれ、わずか5歳で即位しましたが、父の鳥羽上皇に疎まれ、23歳で弟の近衛天皇に位を譲らされました。のちの説話集には、崇徳天皇は実は曾祖父・白河法皇の子であったため、鳥羽上皇から「叔父子」と呼ばれて嫌われていたという話も記されています。
崇徳天皇は、菅原道真、平将門とともに「日本三大怨霊」の一人に数えられ、その中でも最も恐ろしい怨霊とされることがあります。
保元の乱と讃岐への配流
鳥羽上皇の死後の1156年、崇徳上皇は、弟の後白河天皇との対立から兵を挙げました。これが「保元の乱」です。しかし崇徳上皇の側は、平清盛や源義朝らを味方につけた後白河天皇の軍に敗れ、崇徳上皇は讃岐国(現在の香川県)へ流されました。天皇や上皇が流罪となるのは、約400年ぶりのことでした。
「日本国の大魔縁とならん」血書の誓い
軍記物語『保元物語』によると、讃岐で仏教に深く帰依した崇徳上皇は、戦死者の供養と反省のしるしとして、3年をかけて五部大乗経を写経し、京の寺に納めてほしいと朝廷に送りました。ところが後白河天皇の側は「呪いが込められているのではないか」と疑って受け取りを拒み、写本を送り返してしまいます。
激しく怒った崇徳上皇は、舌をかみ切ってその血で写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし、民を皇となさん」と書きつけ、写本を海に沈めたといいます。その後、上皇は髪も爪も伸ばし放題にして、生きながら天狗の姿になったと語られています。1164年、崇徳上皇は46歳で讃岐の地で亡くなり、白峯山に葬られました。
崇徳院の祟りと怨霊伝説
崇徳上皇の死から十数年後、京では後白河上皇の近親者が相次いで亡くなり、大火事(安元の大火)や延暦寺の僧兵の強訴、平家打倒の陰謀など、不吉な出来事が続きました。人々はこれを崇徳上皇の怨霊のしわざだと恐れ、朝廷は1177年、それまで「讃岐院」と呼ばれていた上皇に「崇徳院」という名を贈って、その霊を鎮めようとしました。
やがて武士が力を握り、天皇や貴族に代わって政治を動かす時代が訪れると、これこそ「皇を取って民とし、民を皇となさん」という崇徳院の呪いが実現したものだと語られるようになりました。讃岐の白峯には、崇徳院の霊を守る天狗・相模坊がすむとも伝えられます。
雨月物語「白峯」と白峯神宮
江戸時代の上田秋成は、怪異小説集『雨月物語』の冒頭の一編「白峯」で、歌人の西行が白峯の崇徳院の墓を訪れ、魔王のような姿で現れた崇徳院の霊と問答する場面を描き、崇徳院の怨霊のイメージを決定づけました。
明治維新の1868年、明治天皇は即位の礼に先立って勅使を讃岐に送り、崇徳院の霊を京都に迎えて白峯神宮を創建しました。崇徳院の怨霊は、700年もの間、天皇家にとって慰めるべき存在であり続けたのです。現在、香川県坂出市には崇徳天皇の御陵(白峯陵)と白峯寺があり、京都の白峯神宮はスポーツ上達の神としても信仰されています。
百人一首の崇徳院
崇徳院は和歌にもすぐれ、『小倉百人一首』には「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ」という恋の歌が選ばれています。急流が岩にせき止められて二つに分かれても、やがてまた一つになるように、いつか必ずあなたと結ばれたい、という意味のこの歌は、落語「崇徳院」の題材にもなりました。恐ろしい怨霊としての顔とは対照的な、情熱的な歌人としての一面です。







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